浄土真宗本願寺派 富山常楽寺

富山常楽寺の歴史

南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、
必ず仏にならさせていただく
身のありがたさを喜び、
つねに御恩報謝のおもいから、
人の喜びを自らの喜びとして生きる。
親鸞聖人があきらかにされた
浄土真宗の教えに耳を傾け、
生まれさせていただいた喜びと、
共に生かされる喜びを
大切に受けとめさせていただきます。

富山常楽寺の歴史は越中の常楽寺、富山常楽寺、常楽寺通院、常楽台通院、常楽寺、持専寺など様々な名称が相まって非常に複雑です。ここでその歴史をまとめ、後世に伝えたいと思います。

富山常楽寺の史実

  1. 常楽寺蔵存覚上人著「袖日記」には、1360年(延文5年)閏4月条、越後柿崎庄(現新潟県柿崎町)に住む教浄房が持参した本尊軸に、存覚上人が『越中国水橋門徒 越後国柿崎住人尼浄円本尊也』と書いたとあります。常楽寺開基存覚上人が富山水橋を訪れたことがわかります。
  2. 本願寺第十世証如上人の日記に、1540年(天文9年)、『越中の…常楽寺…』と記されています。こちらが富山の常楽寺の存在を示す最古のものになります。
  3. 本願寺史料より、1636年(寛永13年)、「県下真宗寺院40数カ寺が常楽寺に帰依」と記されています。
  4. 富山常楽寺蔵「親鸞聖人伝絵」裏書に、1686年(貞享3年)、『越中國新川郡 富山常楽寺 寂如』と記されています。こちらが富山常楽寺と明記される最古のものになります。
  5. 富山市史より、1868年(慶長4年)、「慶長四年六月二十三日、西本願寺は、京都常楽台に対して、北陸道・奥羽門末教諭執事を命じた。富山寺町にある常楽台通院富山常楽寺は、富山藩合寺のさい浄土真宗寺院の合併所となった。」、1872年、「(明治)三年十一月十九日社寺方から公選で主寺を選出するように指示があり、常楽寺塔中明徳寺の「妙徳菩薩」と呼ばれた林龍音が八十三票中に十五票を得て当選する。」、1873年、「(明治)四年五月八日太政官は富山藩に「穏当の所置」を指示するが、二十日強気の藩から堂宇は残らず取り壊し開拓中との回答があった。一方で藩も寺院との融和を図り、合併所常楽寺・蓮花寺近辺の町に通りを作り、両側十五歩ずつ地引して真宗寺院に分与する提案をしたが、この段階で自信を持った真宗両派は拒否する。」
  6. 本願寺記録所の史料より、1940年(昭和15年)3月11日付で『常楽寺支坊常楽寺通院』とあるのが、同年4月5日付で『京都常楽寺支坊持専寺』となっています。
  7. 他、「越中念仏者の歩み」永田文昌堂、「越中真宗史」寺野宗孝著、「富山市史」富山市などに関連記載があります。

持専寺と富山の常楽寺が富山常楽寺へ

持専寺は越後流罪中の親鸞聖人に直接面した越中三坊主(※1)の一人、持専坊が創建した寺院であり、加積郷梅沢にその出自をもちます。江戸時代初期、東西分立に反発した当時の持専寺住職が打ち首となり、持専寺は常楽寺預かりとされました。
持専寺は富山の常楽寺に吸収され、富山常楽寺(通称常楽寺通院)として京都常楽寺支坊の形態がとられ、40数カ寺の末寺を有していました。1870年(明治3年)の廃仏毀釈の際には真宗東西両派240余寺の合併所(※2)となり、通院には寺族を含めて1200余名が集まり、各寺仏具3000余点は廊下などに積み重ねられたとされます。

※1 越中三坊主 『遺徳法輪集』に「昔より越中には三坊主とてあり、聖人御直弟子なり。 願海寺、持専寺、極性寺、是れなり」とあります。

※2 合併所 善徳寺「合併実録」より、

天台宗・時宗 円隆寺
時宗は浄禅寺だけであるため見付け(道路つき当たり)来迎寺へ移る。
真言宗 真興寺
清伝寺を予定していたが変更する。
浄土真宗 常楽寺(別説 持専寺)
浄久寺を予定していたが変更する。東西百五十七ヶ寺と塔中九十一ヶ寺の計二百四十八ヶ寺・千二百余人が境内千三百歩・本堂を除く畳数百七十枚と寺内寺の明徳寺畳七十枚(本堂を含む)に押し込められた。あまりに酷いので、願いにより十一月七日蓮花寺も下賜される。
禅宗 光厳寺
日蓮宗 大法寺
浄土宗 見付け来迎寺

富山常楽寺の戦後

1945年(昭和20年)8月1日・2日、広い境内に威容を誇っていた堂宇(伏木勝興寺と同じ大きさであった)は、富山大空襲によって、京都常楽寺から避難させてあった宝物とともに焼失しました。しかしながら、門徒の家城甚平氏(富山市金屋)が、「ご本尊」を背負い、「過去帳」を抱えて猛火を逃れてくださり、門徒衆と寺にとって、最も大切な宝をお守りいただきました。その後、焼け跡に仮本堂が造られましたが、都市計画により東西南北に道路が入り、境内地は細かく分断されました。また、戦後の復興期には、当時の常楽寺住職覚照の強い意向により、富山の日常法務を担当していた明徳寺と真称寺の再建を優先させたため、富山常楽寺は仮本堂のまま昭和50年代を迎えることとなりました。

正式名称を富山常楽寺へ

1978年(昭和53年)、本末制度廃止以降も続いていた役寺との関係に諍いが生じ、常楽寺門徒を引き抜く画策が次々と明るみになりました。同年7月、門徒総代方の機運高まり、「本堂再建」の声が上がりました。同年12月25日、門徒総会が開かれ、梅沢町の境内地を売却し、浜黒崎に移転し、本堂を再建することが満場一致で決議されました。また、土地売買の差益で本堂並びに庫裡を建築し、内陣荘厳及び慶讃法要の各費用をご門徒方にお願いすることも同時に決議されました。
1979年(昭和54年)、ご門徒方の悲願により本堂が再建され、正式名称を京都常楽寺支坊富山常楽寺と改めました。また、本願寺ご門主と前門主にご親修いただき、同年11月24日・25日に富山常楽寺本堂落成慶讃法要が営まれました。

富山常楽寺の名称について

富山常楽寺の歴史はおおよそ1360年から、持専寺の歴史を含めると1210年頃から続くものと思われます。しかしながら、戦災により詳細な資料は失われ、その史実を示すものはわずかなものとなっております。そのわずかな資料から紐解くに、江戸時代は「富山常楽寺」、明治には「常楽寺通院」と、そして昭和15年から「持専寺」と呼ばれるようになり、昭和54年に「富山常楽寺」との名称に戻るという変遷をたどっています。

年間行事

常楽寺で勤められる年間の仏教行事のご紹介です。
古より脈々と受け継がれてきた、歴史と伝統に触れる機会です。

1月1~3日 10時~ 正月詣り(修正会)
7月1〜7日 14時~ 永代経法要
11月10、11日 報恩講法要
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