浄土真宗本願寺派 富山常楽寺

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何が輪廻し、何が往生するのか?

2020.07.04

【ご質問】

輪廻するのは「何」が往生し輪廻すると考えればよいのでしょうか?とある方に質問しましたところ"今の「私」の意識中に現れる過去・現在未来の「私」であり意「識」が過去・現在・未来へ向けて「想」を働かせ輪廻転生します。「空」の思想に則れば「生まれないという仕方で生まれる」"とご回答をいただきました。つまり、「現生」においての意識が往生や輪廻を創るのであって、意識が途切れる臨終のときの一瞬に往生や地獄を想う事なのででしょうか?

<追記質問> 釈尊は、アートマンを否定され「諸法無我」を説かれましたが「我」が無いということは「何」が輪廻したり「何」が往生すると考えればよいのでしょうか?

 

【お答え】

輪廻の主体とは何か?

何が輪廻するのか?つまり、「輪廻の主体」は古来、インド文化、バラモン教では「アートマン(我)」とされていました。しかし、お釈迦様は「私」を五蘊に分解し、色受想行識のどこにも輪廻の主体となるべき常一主宰の「アートマン」たるものが存在しないことを悟りました。また、お弟子であるコーンダンニャも不生(この世に二度と生を受けることはないこと)を悟り、お釈迦様は「コーンダンニャが悟った!」とお喜びになられました。輪廻はしないものであるとわかることを、「悟り」と呼ばれていたのです。ところが、土着の輪廻思想はその後も無くなることはなく、お釈迦様の入滅後もますます盛んになります。ひとまずインド地方においては輪廻を受け入れないと、輪廻を信じている人を説得することができません。そこで輪廻を肯定するために世親・無著は「阿頼耶識」を輪廻の主体にすることを発案しました。この流れが現在もチベット仏教などに色濃く流れています。またちなみに、インド発の宗教は僕の知る限りではありますが、いずれも輪廻からの解脱という形式にのっとっています。それほどインドにおいては、輪廻という概念が人々の共通前提、常識になっているということです。

 

主体とは何か?

「私」というものについては五蘊に分解して説明ができるように(五蘊の詳細については後述)、本来、「私」とは相対的相依性のものですが、煩悩ゆえに絶対的主体性のものと勘違いをして私たちは生きています。主体という概念そのものが、妄想・妄念であることに気づくことすら難しいというのが、煩悩を抱えた凡夫という身の上です。主体ありと思うゆえに、人を責め、自己を責め、悩み苦しみの中を生きようとする姿があるのでしょう。しかし、本来「私」と思うのは末那識の機能にすぎず、実在があるわけではありません。私たちのひとつひとつの思考や行動は「私が」と主語が付随しますが、因縁に従っての思考・行動であることを忘れてはなりません。しかし、「私」という主体が真実ではないことにこだわると虚無思想に陥りかねないので、いったんわかったら捨てよと言われます。

 

五蘊とは何か?

お釈迦様は「私」を分解し、色受想行識の五要素であることを示されました。色は物質・物体を表し、すなわち「私」が(物理的に)あることを意味します。受は感受・感情を表し、「私」が感じることを意味します。想は想念・概念を表し、「私」が思考することを意味します。行は意志・意思を表し、「私」がしたいことを意味します。最後に識は認識・認証を表し、「私」がわかることを意味します。お釈迦様はこの五つの要素が「私」であり、「私」とはこの五要素に他ならないとご自身を分析されました。この際には記憶の機能も識に分類されていたものと類推されますが、前述の通り、後世、記憶(体験や経験、遺伝情報を含む)という要素が「阿頼耶識」として別に立てられます。

 

死後はあるのか?

お釈迦様は「死後はあるのか?」という質問に対して、無記で(無言で)お答えになったと言われます。あるでもなし、ないでもなしといったところでしょう。私個人としては、現時点では迷いながらも輪廻否定説を説いております。輪廻の存在そのものを否定する立場です。しかし、これは地動説を唱えるようなもので、異論も多く、今がタイミングとして相応しいかどうかは自信がありません。いまだ天動説を唱える方は多く、輪廻がないと往生が成立しないという、我にとらわれた言説がまかり通っています。そのような現状の中、特に最近は無記でお答えになったお釈迦様に想いを馳せることが多いです。(ひとまずそれは置いておいて。。。)

六大煩悩の一つに悪見というものがあり、その悪見は五つに開かれ、そのひとつに辺見、別名断常二見というものがあります。死後に断絶する(断)、すなわち死んで終わりも間違い、死後に存続する(常)、すなわち死んで生まれ変わるも間違いということです。その双方とも極端な偏った考え方であり、煩悩ゆえの、死後についての誤った見解であると説かれるところであります。

正直なところ、悟りを開かないことには、死後に何があるかという事実について認識することは、不可能であると思われます。しかし、消去法にはなりますが、こうではないということはハッキリしているところではないでしょうか。

 

往生の主体とは何か?

さて、以上のことを掛け合わせて考えたときに、極楽浄土には「何」が往生すると考えればよいでしょうか。

その答えを僕は「私」と呼んでいます。

『いやいや、待て待て、「私」という主体は存在しないと言ったばかりではないか!』とツッコミが入りそうですね。

ここでは私たち、煩悩を抱えたものの世界と悟りの世界を分けて考える必要がありそうです。よく三界、欲界・色界・無色界と表現をされますが、私たち凡夫の見える世界が欲界、悟ったものが見える世界が無色界だとお考え下さい。

 

欲界  輪廻 主体あり 私は実体 死後はあるかないか  

 

無色界 解脱 主体なし 私は五蘊 死後はあるでもなく、ないでもない

 

こうして比べてみたときに、私たちはどこまでいっても欲界から抜け出せないことがわかるのではないでしょうか?

僕は自分の主体があるものだという考えから抜け出すことができず、死んだら「私」はどうなるのだろうかという不安から離れることはできません。「私」という主体性から離れて物事を考えることができないのです。悟りだと、解脱だと、悟りの世界のことを語られても、知識として知ることはできても、実感を伴って認識することはできません。人のせいにすることや、人に腹を立てることがいくら愚かなことだと理解をしても、実際に怒りや不満がなくなるわけではないことと同様です。

そのような「私」だからこそ用意されたのが、極楽浄土という世界であると考えています。悟れるならば必要ないものでしょう。しかし、煩悩にまみれ、この世の真実を言葉の上では知らされていながらも、真実の認識の中で生きることができない我ら。そのような我らだからこそ、必ず救うという阿弥陀仏の誓願に身を委ね、南無阿弥陀仏のお念仏をいただいていくしかないように感じています。「私」にこだわり、とらわれ、抜け出すことができないからこそ、「私」の行き先を示して頂く必要があるのでしょう。

 

お答えになっていますでしょうか?

もしここがわからない、納得いかないということがあれば、コメント欄よりご意見お寄せいただけると幸いです。

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