共感力を磨くために共感とは何かを考えよう~反共感論に反論してみた~ レジュメ
共感力を磨くために共感とは何かを考えよう~反共感論に反論してみた~
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共感力を磨くために共感と同感の違いを考えよう.pdf
反共感論 ポール・ブルーム著 2018年2月
共感の定義「私がもっとも大きな関心を抱いているのは、「他者が感じていると思わしきことを自分でも感じること」、すなわち「他者の経験を経験する」という意味での共感である。心理学者や哲学者のほとんどは、この意味で共感という用語を使っている。しかし、言葉でものごとが決まるわけではない。共感という語を思いやりや愛情や善良さなどといった広い意味でとらえれば、あるいはその逆に他者を理解する能力として狭い意味でとらえれば、そこには何の問題もない。」
筆者の立場「共感と呼ぼうが呼ぶまいが、他者が感じていると思わしきことを自分でも感じる行為が、思いやりがあること、親切であること、そしてとりわけ善き人であることとは異なるという見方を究めていく。道徳的観点からすれば、共感はないに越したことはない。」
筆者の主張「私たちの多くは、自分の置かれている状況に人々がもっと共感を抱いてくれたら、すなわち自分の生活がいかなるものかをほんとうに感じ取ってくれたなら、自分の扱いもはるかによくなるはずだと思い込んでいる。私の考えでは、それらの思い込みは間違っている。私たちが個人として社会として直面する問題のほとんどは、共感の欠如が原因で生じるのではない。それどころか、過剰な共感が原因で生じる場合が多々ある。
これは単なる共感に対する攻撃ではない。それよりもっと大きな目標がある。私は、日常生活において意識的で合理的な思考力を行使することの価値を強調したい。心より頭を使うよう努力すべきだと言いたいのだ。もちろん現在でも、私たちはたいがい頭を使って物事を考えているわけだが、もっと努力が必要である。」
「共感とは、スポットライトのごとく今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。だから私たちは身内を優先して気づかうのだ。その一方、共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるよう誘導し、共感の対象にならない人々、なり得ない人々の苦難に対して盲目にする。つまり共感は偏向しており、郷党性や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する。かくして暴力の引き金になる。身内に対する共感は、戦争の肯定、他者に向けられた残虐性の触発などの強力な要因になる。人間関係を損ない、心を消耗させ、親切心や愛情を減退させる。」
共感の辞書の意味「他人の考え・主張に、全くそうだと感ずること。その気持。同感。」
問題点...共感と同感の混同。共感の意味のはき違え。訳者の問題もある。
SympathyとEmpathyの違い
Sympathy 他人の不幸をかわいそうに思う
Empathy 他人の感情を理解して分かち合う。(相手と同じほど多難な人生を送っている)
Sympathyは一般的には同感と訳され、Empathyは共感と訳されるが、意味合いから考えると、Sympathyは同情、Empathyは同感の意味合いである。
なお、筆者の本文中にある「情動的共感」「認知的共感」についても、
情動的共感(相手の心理を自分が追体験する)⇒ 同情
認知的共感(相手の心理の内容を把握する)⇒ 同感
(サイコパスや詐欺師は認知的共感に優れているとの分析)
つまり、『共感』という言葉の定義がないばかりか、英語には『共感』に該当する言葉がない可能性がある。整理をすると。
同情は「残念」と思う気持ち
同感は「わかる」と思う気持ち
共感は「なるほど」と思う気持ち
(わかってはあげられない、自分だったらそうは思わない、そうはしないけど、なるほどと思う)
同情・同感は被害者か加害者かどちらか自分の境遇と近い立場に寄り添う心
⇒こちらは確かに分断を生む可能性がある
共感は被害者と加害者、その行為を良しと見る者、悪しと見る者、すべてに寄り添う心
⇒共感はむしろ分断を生まない心であることがわかる
共感の仮定義
2017年度理事長所信より
『「共感」は相手との考え方や想いの違いを認めつつ、共にあるという互いの居場所や生きがいを感じられる安心感・充足
感を生むものであり、相手とまったく同じ意見、同じ気持ちであるという同感とは異なります。』
「共感」には新しい定義が必要であり、共感、同感、同情の混同が、混乱を招いている。